快適なバスの旅と、過酷なジャングルの道と アフリカ道路事情 -2

前回のアフリカ道路事情(1)でお伝えした、見渡す限り砂の世界が続くサハラ(砂漠地帯)から一転、セネガルやガーナなど西部アフリカの国々では、道が網の目となって地域全体を覆っている。
ほとんどの主要道は舗装されており、残された未舗装路も、舗装化があちこちで進められている。長距離を移動中に道路工事の現場を目にしないことは、ほとんどない。
一国内だけでなく、隣接した国々へ向けても、道の網は広がっている。様々な物資を載せたトラックが港から内陸国へと向かい、内陸国で生み出された産品はまた、トラックで港へと向かう。国境を越える長距離バスは、出稼ぎや出張、里帰りのために隣国へと向かう人々を乗せて、毎日運行している。人と物を載せた車が隅々まで絶え間なく行き来する西部アフリカの道は、この地域を支える血管そのものと言えよう。私もこれまで、街から街へ、国から国へと、長距離バスやタクシーを使って移動してきた。

道路状況は常に進化を続けている一方で、20年前も今も、外国人の間では、西部アフリカの国々での移動はしんどいと語り継がれている。5人乗りのセダンに9人乗せられたとか、1台のハイエースに20人すし詰めになったなど、およそ快適さを感じられない話ばかり。また、乗客で席が埋まるまで車が出発することはなく、やっと出発しても故障のために途中下車を余儀なくされるなど、まるで時間が読めない。隣り合わせた乗客との一期一会の出会いは楽しいものの、西部アフリカでの移動を思うと、私も小さく溜息が出る。

近距離間を結ぶ小型バスやタクシーによる移動のしんどさは今も変わらないが、大都市間を結ぶ長距離バスの様相は、ここ数年の間にだいぶ変わってきている。日本国内を走る大型観光バスと変わりの無いタイプの車両が、時速100キロ前後で砂埃を立てながら疾走していく風景が、広く見られるようになってきた。定員オーバーはせず、車内には空調があり、一定の高い速度で走行を続けられ、故障で止まることもあまりない。運賃は事前にチケットを購入する際に支払うため、値段の交渉をする必要もない。これまでの乗り合いバスやタクシーと比べると、画期的にストレスフリーな移動手段といえよう。

時間管理も、なかなか徹底している。
2年前にマリからブルキナファソへ向かうバスのチケットを購入しようとした際、複数のバス会社が運行していたため、私はどのバスを選ぶべきか迷っていた。
現地在住の友人に相談すると、「バニ・トランスポートのバスが一番。厳格に運行しているからね。朝7時に出発と言ったら、7時ちょうどに出発する。お客が一人しか乗っていないのにバスが出発した話を聞いた時には、たまげたよ」と、バニを強く推した。
集客よりもダイヤを優先する哲学に感動した私は、迷わずバニのチケットを購入。翌朝6時50分、バスは確かに定刻通りに出発。友人に感謝しつつ、街を後にした。
あまりにあっけなくバスが出発したことに物足りなさすら感じられたが、座席下の貨物スペースを見ると、そこはアフリカ。直径1メートルほどの洗い桶にはじまり、束ねられたタロイモ、小型バイク、米俵ほどの大袋に詰められたメイズ(白とうもろこし)、脚を縛られた生きた鶏など、生活感あふれる積荷で隙間がない。持参した洗い桶で赤ちゃんを洗ったり、向かった先で鶏をさばいてご馳走をつくったりと、積荷からは乗客の暮らしぶりが次々と連想させられた。

「マリ・バマコ発、ブルキナファソ経由、トーゴ・ロメ行き」「コートジボワール・アビジャン発、ガーナ・トーゴ・ベナン経由、ナイジェリア・ラゴス行き」など、国境を幾度も超える国際長距離バスも、数多く運行されている。物の移動も人の移動も、これからますます活発になっていくにちがいない。

中部アフリカの国々となると、また状況は一変する。ギニア湾沿岸諸国を除くと、道は険しい。この地域を通り抜けるルートもまた、サハラ同様、3つに絞られる。

ひとつめは、チャド・スーダン間を結ぶ道だ。両国とも、サハラを国土に抱えている。チャドのほとんどは砂地だ。日本の3.4倍もの国土面積をもちながらも、舗装された区間の総延長はたった数百kmしかない。道といっても、深い砂に刻まれた轍(わだち)がまっすぐに伸びるばかりだ。西アフリカで見るような大型バスが走れる状況にはなく、車の往来は少ない。日向の気温は50度に迫ることもあり、人々は屋内や日陰で過ごしているため、首都も郊外の街も静まり返っている。

2002年、チャド東端の街アドレで取材中にひと休みしていたところ、暑さで静まり返っていた街が、にわかに賑わい始めた。街の中心部に、様々な日用品をうず高く積んだトラックが到着。スーダンからの行商人がやってきたのだった。運転手の一人に話を聞くと、ここからはるか数千km離れた、紅海に面した港町のポートスーダンから、この荷とともにやって来たとのこと。決して実入りのいい商売とは言えないが、チャドに住む多くの人々が、彼らが運んでくる物資を必要としているためにこの仕事を続けていると話してくれた。トラックは全部で4台。過積載のトラックで砂地を走り続けるのは大変だが、互いに助け合いながら進むから問題はないという。ラクダにこそ乗っていないが、トラックでチームを組んで日用品を運ぶ彼らは、現代の隊商だと感じた。

ふたつ目のルートは、中央アフリカ共和国・コンゴ民主共和国(旧ザイール)間を結ぶものだ。コンゴ民主共和国に入ると、草木が深く茂った熱帯雨林が続く。道は常にぬかるんでおり、轍は膝から腰の深さほどにまで掘り進められてしまっている。壁のように感じられるほどの急斜面も多い。車の往来は極めて少なく、道幅は自動車1台分の幅がぎりぎりある程度。文字通りの獣道が、密林から密林へと続く。

ザイールの道程は、過酷だった。1995年にオートバイで旅した際、約1500kmの道のりを抜けるのに、16日間を要した。日の出から夕方まで走り通しても、1日進んだ距離は平均100kmにも満たない。平均時速は10km程度を強いられる、過酷な道程だった。

ザイールでは、幾筋もの川を越えなければならない。川幅が大きいところでは、時にはボートで、時には丸太をくり抜いた船で川を越える。小さな川には橋がかかっているが、橋と言っても、切り倒した木々を数本束ねて渡しただけのものだ。柵も手すりもなく、足元に空いた大きな隙間からは、川面がはっきりと見える。そんな丸太の橋を、いくつも渡らなければならない。丸太の橋を渡るのにやっと慣れてきたころ、私は橋の途中でバランスを崩し、小川に転落した。
たまたま、川底までは腰ほどの深さしかなく、橋からの落差も1メートルに満たないものだった。フイルムを濡らしてしまったこと以外にダメージを受けなかったのは幸いだったが、これが十数メートルの落差にかけられた丸太橋だったらと思うと、今でも身が縮み上がる。

これほどの悪路でも、現地の人はあっけらかんとしたものだ。四苦八苦しながらザイールの泥道を進んでいると、真っ赤なトラックがぬかるみにはまって立ち往生しているのが見えてきた。荷台には、赤いケースに入ったコカコーラが満載。聞くと、今日はまだ4kmしか進めていないという。そこまでしてコーラを運ばなくても……と思ったが、それは余計なお世話というもの。中部アフリカの道はアフリカ屈指の悪路だが、これほどの悪路でも、人のいる限り物流が途絶えることはない。

最後のルートは、ギニア湾沿岸の国々を結ぶものだ。前述の2つのルートはアフリカ大陸を東西に抜けるものだが、このルートでは海に沿って西から南へと弧を描くように、カメルーン、赤道ギニア、ガボン、コンゴ共和国を進む。私はこのルートを取ったことがないが、チャドやコンゴ民主共和国の道のりほどに過酷なルートではないはずだ。

北部アフリカではサハラと向き合い続け、西部アフリカでは縦横無尽に疾走する高速バスに乗り、中部アフリカでは砂と密林が覆う悪路に悩まされた。道の表情は、地域によってかなり異なる。

南アフリカでは高速道路を爆走する車に迫られ、タンザニアでは象に迫られた。次回、アフリカ道路事情編の第3回目、東部から南部にかけてもまた、これまでとは違った表情が見えてくる。

 

(初出:岩崎有一「快適なバスの旅と、過酷なジャングルの道と アフリカ道路事情 -2」アサヒカメラ.net 朝日新聞出版/公開年月日は本稿最上部に記載/筆者本人にて加筆修正して本サイトに転載)