気がつけば向こう側 ~アフリカの国境事情

周囲を海に囲まれた日本に住む私たちにとっては、国境といえば海であり、陸上の国境は想像しにくいものだ。有刺鉄線で隔てられ、機関銃を持った国境警備隊がこちらを睨んでいるような風景を思い浮かべる方が多いかもしれない。しかし、アフリカの多くの国境は、案外あっけないものだ。

国境を幹線道路が貫くような場所では、「ようこそ○○へ」と記された看板とともに、それなりの鉄柵が設けられていたりするが、往来の少ない地点では、国境を隔てる柵すらない。また、国境周辺に住む人々にとっては、こちら側も向こう側も、同じ「地元」の一部。あたりまえのように、国境を行ったり来たりしている。

私もこれまでに、うっかり国境をまたいでしまったことが度々あった。

国境を越える通過点となる街や村に到着しても、往来の少ない場所では誰の目にもわかるように国境のラインが引かれていることはなく、街や村の風景に、入国管理事務所が完全に溶け込んでいることもある。国境の通過者自らが、周囲の住人に、どこに税関事務所があるのか、どこでパスポートに入出国印を押してもらえるのかなどを、聞いてまわる必要がある。

国境を越える気軽さとあっけなさは、入国後も度々感じる。

ブルキナファソで泊まった宿のスタッフと雑談をしていると、「あなた、コートジボワールには行ったことがある?」と質問された。彼女は同国の首都ヤムスクロ近郊の街からブルキナファソへと働きに来ているのだという。時々は、里帰りしているとも話していた。

コートジボワールのアビジャン市内にある酒場では、商店主が話す滑らかな英語に驚いた。この国での公用語はフランス語であり、英語を話す人を見つけることは少ない。どうして英語を話せるのかを尋ねると、「私はガーナ人だから」とのこと。隣国ガーナの公用語は英語だ。

マリからブルキナファソへ、ソマリアからケニアへ、ジンバブエから南アフリカへなど、隣国から隣国へと働きに出ている人は多い。外国への出稼ぎといっても、遠路はるばるやってきたという仰々しさを、彼らに感じることは少ない。

そもそも、国境の概念すら希薄なのではないかとも思える。トーゴでは、西隣りのガーナに親戚を持つ人にしばしば出会った。モーリタニアやマリ、西サハラやスーダンなど、サハラ砂漠の周辺国でも、家族に会うために国境を越える姿を、日常的に目にした。かつて国境線がなかった時代には、国境にまたがる地域が、こちら側も向こう側もなく「この辺り」だったことが、自然とうかがえてくる。

南アフリカ共和国で暮らす、ジャーナリストの男性は、ブルンジ人だった。彼は内戦で家族を失い孤児となり、まさに着の身着のままで、数千kmの道のりをかけてバスを乗り継ぎながら、南アフリカまでたどり着いた。「大変なんて言葉では語れないほどに、大変な道のりだった」と、彼は振り返る。

ブルンジから南アフリカまで、どうやって国境を越えてきたのかを、聞くと、

「パスポートがなくても国境を通してもらえたし、お金を持っていなくてもバスに乗せてくれる人がいた。食べるものも、眠る場所も、誰かが提供してくれた。国籍が異なっても、アフリカ人というだけで、大きな家族のようなもの。だから、どれだけ困難な状況にあっても、正しく生きてさえいれば、誰かが助けてくれるものなんだよ」

と、答えてくれた。

アフリカの国境は、植民地統治時代に旧宗主国によって策定されたものがほとんどだ。独立を遂げた現在でも国境として残っているものの、アフリカの人々にとっては、そもそも、国境のなかった歴史の方が、はるかに長い。この大陸の歴史を振り返ると、現地の人々にとって、国境の向こう側に住む人々は、外国人と言うより「お隣さん」に近いのかもしれない。

私が北から南へとアフリカを訪ねる中で、国境を境目に、人や文化ががらりと変わったことはなく、国境を境に反目しあうような雰囲気を感じたこともない。人も文化も緩やかにグラデーションしていくのが、アフリカ各地における私の国境感だ。

 

(初出:岩崎有一「気がつけば向こう側 ~アフリカの国境事情」アサヒカメラ.net 朝日新聞出版/公開年月日は本稿最上部に記載/筆者本人にて加筆修正して本サイトに転載)