この1杯のために、アフリカを訪ねる

アフリカの酒場で過ごす時間は、至福のひとときだ。この時を過ごすために現地を訪ねていると言っても、うそにはならないと思う。

例えば、西アフリカに位置するブルキナファソのボボデュラッソで訪ねた酒場は、こんな感じだ。

表通りを歩きながらふらりと入店したその店は、中庭のある開放感あふれる酒場だった。空いている席に腰を下ろし、店員に声をかける。注文を取りに来た女性は、メニューを携えていない。ましてや日本のようにテーブルにメニューが置かれているわけでもなかった。店にあるのは、その国に流通しているビール数種と、コカコーラやファンタなどのソフトドリンクが数種のみ。ビールの銘柄を伝え、しばし待つ。

先ほど注文を取ってくれた女性が、針金やツルを編んで作られた専用のカゴに、ビール瓶とコップと、栓抜きとコースターを入れて戻ってくる。洗いたてのコップに、瓶の表面が氷結するほどに冷やされたビールを注ぎ入れてくれた。なるべく折れ曲がらないようにそっと開けた王冠は、ハエがたからないよう、再びビール瓶の口に戻される。用意されたコースターも、コップの下に敷くためではなく、飲んでいる途中にハエがたからないようコップにふたをするためのものだ。飲み口を常になにかで塞いでおくのは、アフリカで広く見られる流儀のひとつとも言える。

日本のものと比べると、ずっと軽やかで爽やかなビールをゆっくりと喉に通し、空を仰ぐ。その日の出来事を顧みながら、出会った一人一人の言葉を反すうする。ああ、この地を訪ねてよかったと、しみじみと思いながらコップを傾けていると、女性の店主が、「万事OK? 問題なし?」と声をかけてくれた。「この1杯を飲むことができて、私はとても満足です」とこたえると、彼女は目を細めた。

周りでは、仕事帰りと思しき男性、ささやくように語らいを続ける恋人たち、笑い声の耐えない友人たちなど、各自各様にビールを楽しんでいる。初めて訪ねた店では独り酒となることがほとんどだが、アフリカの酒場で寂しさを感じることはない。話し相手が欲しいときには、周囲の客に話しかければ、いくらでも付き合ってくれる。かといって、独りで思索を深めたいときには、しつこく話しかけられることもない。この酒場でも、明らかによそ者である私に対して、店主も店員も、客人たちも、過剰にサービスすることもなければ、冷たくあしらわれることもなかった。この土地に住む人々と同じように接してくれることが、私にはありがたかった。

同じく西アフリカに位置するトーゴの海岸沿いにある小さな街バギダの酒場も、気持ちのいい場所だった。

かつてこの街がトーゴの首都であったことを記すモニュメントがあり、その周囲に、片手で持ち上げられるほどに軽い、ペラペラのプラスチックの机と椅子が並べられている。看板はなく店名もないが、そこが酒場だった。耳を済まさないと聞こえないほどの音量でかけられた音楽と、潮の香るそよ風が、実に心地いい。

私はいつものように、ビールを飲みながらたばこの煙をくゆらせていると、「ちょっと隣に座っていいかしら」と、従業員の女性に声をかけられた。彼女は私から目をそらしたまま、意を決したような面持ちだった。何を言われるのかわからないまま、私は椅子を差し出した。

「あなたはどうしてたばこを吸うの?」

「あ、ごめんなさい。ここは禁煙だった?」私は慌ててこたえた。

「違うの。たばこはあなたの体に良くないの。私はね、体に良くないものをなんで吸うのかって聞いてるの。私はあなたに、体に良くないたばこをやめてほしいの。それを言いたかっただけ」

彼女はそう話すと、すっきりした顔で持ち場へ戻って行った。

たばこをすぐにやめることはできないけれど、彼女の勇気と優しさをうれしく思いながら、ビールをもう1本、開けた。

アフリカの地場の酒場でグラスを傾けていると、国籍の概念が希薄になってくる。自分が外国人であることの感覚がぼんやりとしはじめ、ただその場を共有するさまざまな人の1人でしかないようなこころもちになってくる。

特筆するようなつまみがあるわけでもなければ、きらびやかな装飾があるわけでもない。酒場にあるのは、ビールと音楽だけだ。それでも、分け隔てのないささやかなホスピタリティが、私に至福のひとときを、いつももたらしてくれる。

この原稿を書きながら、あの1杯が、恋しくてたまらない。あ、もちろん、日本で家族とともにする夕飯時の1杯も、私にとって至福のひとときだ。

 

(初出:岩崎有一「この1杯のために、アフリカを訪ねる」アサヒカメラ.net 朝日新聞出版/公開年月日は本稿最上部に記載/筆者本人にて加筆修正して本サイトに転載)