異なる色の糸とともに

2016年1月30日の陽が沈みきったころ、私は西アフリカのマリ共和国の首都バマコの空港に降り立った。エンジンオイルが燃えた匂いのする排気ガス、信号待ちのたびにやってくる物売りの少年たち、道沿いのバーから聞こえてくる大音量の音楽など、定宿を目指すタクシーで感じる風景は、1年半前と何も変わっていない。運転手に、この間に何か変わったことはあるかと聞いてみたが、「何も変わっていませんよ。相変わらず、生活は厳しいです」との返答。生活をさらに悪化させるような新たなできごとが聞こえてこなかっただけでも、私は満足だった。

定宿に着き、以前と変わらぬ宿のスタッフたちと再会のあいさつをひとしきり交わしたところで、ドゴン族出身のスタッフのひとりから、「今晩のフェスティバルを取材に来たのだよね」と言われた。聞くところによると、ドゴン族の人々によるフェスティバルが、明日最終日を迎えるとのこと。私はこの催しを事前には知らなかったが、私にとってはうれしいハプニングだ。明日はその最終日。明朝に早速、「第一回ドゴン文化祭」の会場を訪ねてみることにした。

これまでに多くの観光客を魅了してきたドゴンについては、アフリカン・メドレー「ドゴンのマスク・ダンスを訪ねて」を参照されたい。

バマコ中心部を流れるニジェール川のほとりにそびえるBCEAO(=ベセアオ/西アフリカ諸国中央銀行)ビルを臨む広場が会場となっており、午前中からすでに多くの人が集まっていた。

会場内には、ドゴンのマスクや彫刻品などを売る民芸品店や、ミレット(ヒエの一種)をはじめ、ドゴンの人々が暮らすバンディアガラの地域一帯で収穫される特産品を紹介するコーナー、ドゴン関連の書籍を扱った書店、家庭料理をふるまうレストランなど、20以上の展示ブースが立ち並んでおり、さながらマリ博覧会といった様相だ。出展者はもちろん、来訪者にもドゴン出身の人が多い。久方ぶりの再会を喜び合う風景が、あちこちで見られた。

展示ブースの隣には特設会場が設けられ、政府閣僚はじめ関係者代表によるあいさつが続いていた。その後、西アフリカで有名なコメディアンのアダマ・ダイコによる漫談で会場のムードが沸き上がった後、ドゴンの人々によるマスク・ダンスが披露された。300以上用意された座席は埋まり、会場を取り囲むフェンス周辺でも、少なくとも200人程の観客がこの文化祭を楽しんでいた。ドゴンのダンスを目にするのはこれで2回目となる私にとっても、マリの観光業の大切な担い手であるドゴンの人々による文化祭は、やはり魅力あふれるものだった。

この文化祭会場は、オゴバナという名の架空の村に見立てて作られている。展示ブースの中央部には、オゴバナ村の村長が住む家まで設けられていた。村長は、なぜか縫い物をしている最中。私は、村長の周囲に立つ4名の従者の一人に声をかけ、村長に話を聞かせてもらえないかと頼んだ。「村長は、外部の人間と直接話をすることはしない習わしなのです。私が村長に代わってお話しします」と、従者の男性は言う。少々残念な気持ちでインタビューを始めようとしたところ、縫い物の手を止めた村長が、私に向かって手招きをした。

そして、「あなたは、はるか遠い国からわざわざ、私たちの話を聞きに来てくれた。私は、あなたに直接、お話がしたいです」と声を掛けてくれたのだった。そして、村長のすぐ隣に、私のために腰掛けが用意された。

このドゴン文化祭は、今回が初めての催し。マリだけでなく西アフリカ全体においても長く有名なドゴンの文化祭が、なぜ今になって初めて開かれることになったのかが気になっていた私は、この文化祭の開催趣旨をたずねた。

「ドゴンの文化を多くの人々に伝えるため、多くの人々をドゴンに迎え入れるため、ドゴンは安全な場所であることを伝えるために、この文化祭を開くことにしました」

村長の言葉を聞いた私は、ドゴンの人々が、かなり切羽詰まった状況にあるのだなと感じた。

「多くの人々」とは、西欧からの旅行者のこと。かつて、西アフリカを訪ねる西欧旅行者の誰もが、ドゴンを知っていた。バンディアガラの村々を巡る小道を曲がるたびに、白人旅行者と出くわすほどだったとも聞く。自らその文化を伝え、自ら旅行者を招き入れることをしなくとも、このような「文化祭」を開かずとも、彼らの地をあまたの旅行者が絶え間なく訪ね続けてきた。

しかし現在、マリに観光客の姿は滅多に見られない。

2012年、マリ北部の分離独立を求める勢力に加え、サハラ周辺に勢力を持つAQIM(イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ)や、リビア崩壊後に武器とともに流入したさまざまな国籍の旧傭兵(ようへい)など、多種多様な勢力が複雑に合流しながらマリ政府軍への攻撃を開始。マリ北部から中部にかけてのほとんどの主要都市を占領した。

2013年1月、マリ中部の大都市モプチにあと数キロまで迫りつつあった反政府勢力に、フランス軍が空爆で応戦。その後、複雑に合流した反政府勢力から、サハラに暮らす遊牧民トゥアレグ族などの分離独立を求める勢力は離脱を始め、マリ政府にとっての戦況は徐々に好転した。

同年4月にはMINUSMA(=ミナスマ/国連マリ多元統合安定化ミッション)が設立され、北部の治安維持活動を開始。2013年8月に私がマリを訪ねた際には、主要都市の奪還をほぼ終えた状況だった。

その後、主要都市が再び占領されるような事態は起こっていないものの、MINUSMAやマリ政府軍への攻撃は後を絶たない。また、2015年11月にはバマコのラディソン・ブル・ホテルが襲撃され、日本でもアフリカのニュースとしては大きく報じられた。

このような状況のもとで、マリにあふれんばかりにいた外国人観光客は、激減した。バマコから遠く離れたバンディアガラのマスク・ダンスをバマコにいながらにして見られるにもかかわらず、この文化祭の会場には観光客と思しき来訪者はゼロ。十数名ほど見受けられた外国人のほとんどは、MINUSMA関係者だった。

バンディアガラも例外ではなく、多い月には数百人の観光客が訪れていた日々から一転、月にゼロ~数人にまで落ち込んだ。観光客からの収入を見込んだバンディアガラの経済状況はたちまち逼迫(ひっぱく)し、現金収入は街で働く家族からの仕送りに頼るのみ。2015年に入ってからは、バンディアガラに暮らす人々の間では、とうとう物々交換が行われ始めたとの声も、後に別のドゴンの村人から聞いた。田畑を耕し、家畜を育て、収穫物を交換し合うだけの生活には、観光収入で現金を得て現代的な生活を始めている人々にとってはさすがに限界がある。貨幣がなければ、電気も使えず、携帯電話の通話料もチャージできず、街に出るタクシー代すら払うことができない。現況を耐え忍ぶだけでは、バンディアガラの生活はなんら好転しないがため、ドゴン自ら起こした行動のかたちが、この「第一回ドゴン文化祭」なのだった。

「マリの問題は、もう終わります。この問題は、長くは続きません。だから、マリを訪ねてほしい。ドゴンを訪ねてほしい。すべての人たちに向けて、ドゴンは開かれています」

オゴバナの村長はそう語り、また縫い物を続けた。

なぜ縫い物をしているのかをたずねると、彼は手を止め、ひと呼吸おいてから話はじめた。

「ここに、白い糸と黒い糸があります。白い糸は北を、黒い糸は南を表しています。2012年の衝突以降、マリは北と南に引き裂かれてしまいました。しかし、マリは一つです。ばらばらのピースになってしまってはいけません。また再び一つにまとまることを願って、白と黒の糸を撚りながら、マリの国旗を縫っているのです」

マリ北部には、トゥアレグをはじめとするホワイトアフリカの民族が、マリ南部はブラックアフリカの民族が多く暮らしている。 よって、村長はマリの民族を白と黒の糸になぞらえていたのだ。今も私は、マリの問題がすぐに終わるとは思えないでいるが、オゴバナ村の村長の言葉一つ一つには、生活の安寧を希求する思いが込められていると感じた。

※ホワイトアフリカとブラックアフリカについては、アフリカン・メドレー「アフリカ、サハラの海に隔てられたその先に」を参照されたい。

2012年の衝突以前は、バマコのいたるところで旅行ガイドに声をかけられた。

「ドゴンダンスを見に行きませんか」「ジェンネのモスクまでのタクシーを手配しましょう」「トンブクトゥを訪ねるには最高のガイドですよ」といった決まり文句とともに、瞬く間にガイドに取り囲まれてしまう。

私がそれまでに訪ねた西アフリカの国々の中で、これほどツーリスティックな国は、他になかった。あまりにツーリスティックなためにマリを敬遠すらしていた私は、マリを訪ねても素通りしていたほどだった。

そんな私がマリの現況を注視している理由は、二つある。

一つは、アフリカの国が民族ごとに分断される事態が起こり得るのかが気にかかっているからだ。マリは広大な地域を抱える国であるがゆえ、多くの異なる民族を内包している。この点は、マリほどではないにせよ、植民地支配をしていた旧宗主国の勢力範囲をそのまま国境としている多くのアフリカ諸国にも通じる。だが、旧宗主国からの独立と民族自決は、必ずしも一致していない。実際、2011年にはスーダンから南スーダンが分離独立を遂げた例もある。

仮にマリ北部が分離独立するような事態が生じるならば、西アフリカのマリ周辺国の国境線にも、大きな影響が及ぶに違いない。私は、マリの南北問題は、マリに留まらないと思っている。

もう一つは、マリに散見されるテロリズムの動向が気にかかっている。これまではかろうじてマリ国内に留まっていたが、今年になってから、1月には東に接するブルキナファソの首都ワガドゥグで、そして3月には南に接するコートジボワールで、外国人を狙ったテロ攻撃が発生している。いずれも、マリ北部から南進した勢力の一部による犯行だと言われている。テロの飛び火が西アフリカにどれだけ広がっていくのか否か、気が気でならない。

マリの問題は、マリだけの問題ではない。現在のマリが抱えている困難な状況は、西アフリカの国々に、テロをはじめとしたさまざまなかたちですでに影響しはじめている。広くアフリカに魅せられた私としては、マリの行方が、気になってしかたがない。

「ユウイチ、次はいつ来るんだい? マリの人々は(辛い日々に)泣いているよ。ユウイチが話を聞くべき人が、たくさん待っている。ユウイチ、次はいつ?」

昨年、マリのモプチに住む友人のハミドゥから、電話でそう言われた。

武装勢力による南進以降、2013年から今年にかけて3度にわたって、マリを訪ねた。これからしばらくの間、マリの人々の声と生活をお伝えしていきたい。

 

(初出:岩崎有一「異なる色の糸とともに」アサヒカメラ.net 朝日新聞出版/公開年月日は本稿最上部に記載/筆者本人にて加筆修正して本サイトに転載)