深刻な食糧不足の裏にある“不都合な真実”と“希望”

この夏、自宅近くのバーで、ひとりのアイルランド人と出会った。よどみなく日本語を話す彼は、私がたびたびアフリカの国々を訪ねていることを知ると、「マラウイには行ったことがありますか」と言って、ビールの入った自分のグラスを近づけてきた。

デクランは、マラウイの保育園で給食支援活動を行うNPO法人「せいぼジャパン(以下、Seibo)」の代表だ。今、マラウイは、天候不順による食糧不足が深刻な状況なのだとデクランは言う。

「マラウイに行ってもらえませんか。岩崎さんに、マラウイを見てきてほしいのです。現地スタッフに岩崎さんのことを話しておきます。まだ今日の時点では約束できませんが、でも、私の心のなかでは、ほとんど決めた上でのお願いです」

あまりに唐突な申し出に、私は半信半疑だったが、デクランの話に誇張や怪しさは感じられなかった。

これまでに2度、私はマラウイを訪ねた。南北に細長く、東側に沿うマラウイ湖をいただく内陸国のマラウイは、どの地域を訪ねても田舎で質素だが、しかしまた、どの地域を訪ねても緑豊かで、人々が擦れていなかったことが印象に残っている。

自宅に戻り早速調べてみると、2013年ごろから干ばつと多雨がマラウイ各地で散発的に繰り返されていた。国連WFP(世界食糧計画)によると、その影響でマラウイの人口の約40%が、食糧の緊急支援を必要とする状況に置かれる可能性が高いとされている。

マラウイでいったい、何が起こっているのか。デクランの申し出を受け、現地を訪ねた。

例年よりも早めの秋風を感じ始めた9月に日本を発ち、マラウイ第2の都市ブランタイヤの空港に到着した私は、Seiboが事務所を置く同国南部の街チロモニへと向かった。車窓から見える景色から、深刻さは感じられない。通り沿いには野菜や干し魚を売る光景が見られ、自動車の往来も多い。私は、支援機関の車両が頻繁に行き来し、やせ細った人が座り込んでいるような状況が目に入ってくるのかもしれないとかまえていたが、そのような風景はなかった。

Seiboは、チロモニを拠点に、2015年からチロモニ周辺の保育園で給食支援活動を始めた。1日1食しか食べられない子どもが多いため、5歳以下の子どもたちに保育園での給食支援を続けている。幼い未就学児の心身の成長を促すことで、その後の小学校就学へと子どもの成長を確実につなげ、マラウイの未来を担う人材を育むことがねらいだ。現在は、保育園だけでなく、小学校での給食支援へと活動を広げようとしている。

今回のマラウイ滞在中、チロモニの保育園と、同国北部ムジンバ県ムズズ地区に点在する小学校を、Seiboの現地スタッフとともに訪ねた。給食が子どもの成長を助けるだけでなく、給食目的とはいえ保育園に子どもを預けるようになったことで、両親が家事や仕事に専念できるという効用もあることを知った。

また、ムズズでは朝食を食べる子どもはほとんどおらず、昼食として持たされるのもせいぜい麩(ふ)菓子程度だ。そのため、空腹で朝から始まる小学校の授業に集中できず、足が遠のく子どもが多いこともわかった。保育園や小学校で得られる1食がもたらすものは、想像以上に大きいのだ。

子どもたちが十分に食べられている状況でないことは、保育園に子どもを通わせる両親や、小学校の先生たちの話から伝わってくるが、人口の40%もの人々が飢餓に陥る寸前だとの緊迫感を、チロモニとムズズで感じることはなかった。子どもたちの顔には笑顔が見られ、大きな騒ぎ声も訪ねる先々で聞こえてくる。やせ細った体つきの子どもを見ることもなかった。

昼も夜も、ひとりで街歩きをした。

種類は豊富ではないが、人々が日常的に口にする野菜は道端で売られており、シマと呼ばれるトウモロコシの粉末をお湯で練った主食に、肉や小魚をあわせた食事を提供する定食屋は、あちこちで営業をしている。夜になれば、人々はバーで、現地でライセンス生産されているビールのカールスバーグをゆっくりと味わい、ビールは高くて手が出せない人は、チブクと呼ばれるトウモロコシの発酵酒を手に、語らいを楽しんでいる。

街を歩いていても、外国人の私に刺さるような視線が向けられることはなく、昼も夜も、街でたかられることもなかった。一見するかぎりでは、食糧不足に窮しているようには、私には見えなかった。

食糧不足の度合いは、どの程度なのだろうか。食糧不足がほんとうならば、どうやってしのいでいるのだろうか。天候不順が原因ならば、天候が回復すれば、食糧不足はすぐに収まるものなのだろうか。緑豊かなマラウイで、そもそも、なぜ食糧不足が起こったのだろうか。ごく限られた日数の滞在期間中、私の疑問は増えるばかりだった。

食糧が不足していることは、事実のようだ。チロモニの街を歩きながら、すれ違う人に声をかけ世間話をしながら、食糧不足が生じているかをたずねてみると、誰もが頷く。Seiboのデクランによると、マラウイでは、8割を超える国民が自分の畑を持ち、自分で食べる野菜や穀物を自家栽培しているという。マラウイに暮らす人々にとって、畑仕事は日常の一部であるため、天候不順による取れ高不足は、広く、自分自身の問題として受け止められている。

マラウイ北部ムジンバ県のカブク小学校長によると、主食となるトウモロコシの生産量は、自身の畑においてはここ数年、半分から3分の1に減ったという。チロモニでもムズズでも、取れ高が激減したとの声は聞いたが、ゼロになったという声を聞くことはなかった。

また、天候不順の発生具合は地域によって異なり、ある地域では多雨が続き、別の地域では干ばつが発生するなど、地域差が大きいことも、南北ふたつの街を訪ねたことでわかった。

また、たくさんの人と話をするなかで、「肥料を買うこともできない(だから自家栽培を再開できない)」「肥料の問題があるから(だから食糧不足が起こった)」との声を、たびたび耳にした。私は当初、肥料と食糧不足がどう繋がっているのかがわからなかったが、より詳細な説明を求め続けることで、少しずつ、その意味するところが見えてきた。

事態は少々込み入っている。私が現地で聞いた話をまとめてみたい。

かねてマラウイでは、在来種の種と有機肥料を使って農耕が続けられてきた。土地は肥沃(ひよく)で、年に3回の収穫が、恒常的に見込まれてきた。

そこへ、この種を使えば、従来の倍の収穫が得られるとの触れ込みで、外国企業がハイブリッド種の種を紹介。当初は無料で配布されていたらしい。実際にハイブリッドの種を蒔いてみると、確かに倍のトウモロコシが取れた。しかし、このときに取れたトウモロコシを蒔いても、まるで育たない。再び同じ土地でハイブリッド種を育てるには、異なる種類の種を蒔かなければ育たないように、操作された種だった。

再びハイブリッド種の種を求めても、無料なのは初回のみ。人々は、種を購入しながらトウモロコシを栽培するようになっていった。その後も、在来種の4倍、8倍の収穫が期待できるとの触れ込みで、ハイブリッド種の売り込みは続けられていった。

在来種よりもはるかに多くの収穫が得られるものの、ハイブリッドを使い続けるにつれ、土地はどんどん痩せていく。そこで、これまで使われることのなかった化学肥料が導入されるようになった。化学肥料もまた、購入する以外に入手方法はない。自己完結できる自家栽培から、ハイブリッドの種子と化学肥料を購入しながら、自家栽培を続けるスタイルへと、マラウイの農業は変化していった。

マラウイの人々が食糧問題について語るなかで「肥料」と言っていたのは、この化学肥料のことだったのだ。そして、ハイブリッド種を育てるためには農薬も必要だ。しかし、農薬もまた、無料で与えられることはなく、購入しなければならない。

天候不順のせいで食糧不足が生じた結果、種と肥料と農薬を買う余裕も無くなってしまったことが、農業を再開させにくい状況を生んでいるようだった。

ならば、再び在来種の種と有機肥料を用いた農耕を再開すればいいとも思うが、そう簡単な話ではないようだ。

ハイブリッドがマラウイを席巻した結果、在来種はほとんどなくなった。そのため、種を探すことが極めて困難な状況なのだという。また、いったん痩せた土地を、化学肥料なしで再び肥やすためには、ひどく時間がかかるとも聞いた。元に戻したくても、すぐには戻せないジレンマを、人々の話に感じた。

ムズズでSeiboが活動を始めようとしている小学校を紹介してくれたのは、現地スタッフのフィスカニだった。彼はムズズ大学で言語学と地理を学ぶ大学1年生。私はフィスカニに、これまで聞いた話と私の理解が正しいものなのかを確認すると、「それは正しいのだけれど、(この事態を理解するためには)まだ知っておかなければならないことがあります」と言い、順序立てて説明をしてくれた。

マラウイでは、調理やれんが造りなどに用いる焚き木を得るため、森林を伐採し続けていた。森の木を切り倒した後になんのケアもしなかったせいで、土壌侵食があちこちで発生した。つまり、土地が痩せてしまう事態は、ハイブリッド種だけがもたらしたものではないということだった。

そこへ、天候不順が発生。痩せた土地は雨に流され、雨が降らなければサラサラの砂状となり、すぐに自力では復興しにくい状況が生まれてしまったという。また、散布される農薬はあらゆる虫を殺すほどに強力なため、生態系が変化してしまうことが強く危惧されることも、フィスカニは話していた。

チロモニにある就業支援センター「ビーハイブ」のセンター長ピーター氏からは、また別の話を聞くことができた。

たとえ微額でも、より多くの現金収入を求めてトウモロコシなどの食物から、タバコやコーヒーといった換金作物の栽培に転向した農家が多いという。しかし、極めて厳しい価格交渉のもと、換金作物から得られる金は限られ、食糧を潤沢に買える状況ではない。かといって、急にまたトウモロコシを育てることはできない。

「現在の食糧不足が発生した理由は、天候不順だけが原因ではありません。天候不順は、あくまでもきっかけにすぎない。マラウイの食料不足は、人為的飢餓、人為的飢饉(ききん)とも言えましょう」

ピーター氏はそう話して、目を落とした。街では、政治的飢餓だという人もいた。帰りの飛行機で隣り合わせた、マラウイで長く医療に従事するエチオピア人医師は、こう話していた。

「マラウイの状況を見ていると、マラウイの農業は、いったい誰のための農業なのかという気持ちになります。彼らがどれだけ働きに働いても、そこで生み出される富は、マラウイの民のものになっていません」

マラウイに長く携わってきたある日本人援助関係者は、「単なる食料不足という話じゃないんです。極めて構造的な問題です」と話していた。私は彼の言に、深く頷いた。

私にはもうひとつ、気になっていたことがある。この厳しい状況のもと、マラウイの人々は、食料不足と農業危機を、どうしのぎ、どう対処しているのだろう。

フィスカニによると、「助け合い」でギリギリしのいでいるとのことだった。主食となるトウモロコシに事欠けば、互いに貸し借りし、時には少量を与え合うことで、互いに飢えをしのいでいる。畑に蒔く種や肥料についても、助け合いでしのいでいるらしい。

農業については、畑を見せてもらうのがなにより理解の近道だと思い、フィスカニに相談すると、彼が携わっているチチメンベ村周辺の畑を、快く紹介してくれた。

国道から脇道を進んでいくと、まず土壌侵食の実態が見られた。「ほら、こんなふうに流されてしまっている」とフィスカニが地面を指さす。

立ち枯れたトウモロコシが並ぶ畑も、いくつも見られた。化学肥料を与えなければ、どれだけ育てても収穫にはいたらない。人の背の高さまで育ったトウモロコシが、そのまま枯れてしまっている光景は、実に悲しい。

「私たちは、失敗から学びました。時間はかかるけれど、また元のやり方に戻せばいい。そのための試みを、私たちははじめています」

ため息ばかりをついていた私に、フィスカニはそう話しながら、別の畑を紹介してくれた。

木々を切り倒した後の土地には、グルーガムの木の苗が植えられていた。グルーガムは、大地を再び肥やしてくれるという。種を直接蒔いても十分に育たないため、廃品のプラスチックチューブを使って、グルーガムを苗の状態まで栽培することも、行われていた。

化学肥料から有機肥料への回帰も、積極的になされていた。畑をベルギーワッフル状に耕し、そのマス目ひとつひとつに、牛の堆肥がまかれている。「自然のものはいいんだと、わかったんです」フィスカニはそう言って、はにかんだ笑顔を浮かべた。

「教育というのは、とても大切なものです。学んだからこそ、こうやって元に戻す試みを始めることができました。そして、学んだことを皆に伝えることもまた、大切だと思っています」

フィスカニは、カゾンバ地区青年団の一員としても活動をしている。農業を復興させるためのノウハウを学び、チチメンベ村をはじめカゾンバ地区の畑を元に戻すために、そのノウハウを還元しているという。カゾンバ地区青年団は支援を受けることなく、マラウイ人の青年が自発的に集まり組織されたものだ。農業の復興においてもまた、助け合いの精神が発揮されることで、この危機的状況をしのごうとしていることを知り、私は、唸るように感心した。

このマラウイ滞在中、現地の方々と話をしていると、「マラウイは貧しいからね」と言われることが何度もあった。統計の取られた年度にもよるが、数字のうえでは、マラウイは世界で下から数えて5本の指に入る最貧国ではある。そして彼らはほぼ必ず、こう続ける。「でもマラウイは、『アフリカの温かい心』と呼ばれている国でもあります」

私は、マラウイに貧しさを感じない。構造的な問題によってどれだけ土地が痩せようとも、マラウイの人たちのこころは、決して痩せてはいない。助けあいを目に耳にするたび、私はそう感じた。

フィスカニにチチメンベの畑を見せてもらった私は、13キロほど離れたムズズの宿へ戻るため、国道で乗り合いタクシーがやってくるのを待った。ほどなく車がライトをパッシングしながら通りがかので、手を上げて止め、車内に乗り込んだ。

車内には、運転をする男性と、着飾った女性が2人。聞くと、これからムズズで友人の結婚式に参加するところなのだという。豪華さはなくとも艶やかな衣装が、実に美しい。女性の1人から、「さあ、あなたをどこで下ろして差し上げればよろしいでしょうか」と聞かれた。バス乗り場近くで下ろしてくださいと話すと、私たちはムズズに詳しくないから道を指示してほしいという。この車はタクシーではないことに気づいた私は、結婚式への旅路を邪魔してしまったことを詫び、私を乗せてくれたことへのお礼を伝えると、彼女はこう話した。

「謝ることはありませんよ。これがマラウイのやり方ですから。私たちに感謝してくださった気持ちをわすれないでください。そしてあなたも、アフリカで困った人を見かけたときは、私たちがそうしたように、助けてあげてくださいね(注:彼女は『マラウイで』とは言わず『アフリカで』と言った)」

「約束します」と私は応じ、車を降りた。

なんどもため息をつき、なんども唸ったマラウイ滞在だった。食糧危機を目の当たりにしながらもなお、むしろよりいっそう、マラウイに、アフリカに、私はひかれた。

 

(初出:岩崎有一「深刻な食糧不足の裏にある“不都合な真実”と“希望”」アサヒカメラ.net 朝日新聞出版/公開年月日は本稿最上部に記載/筆者本人にて加筆修正して本サイトに転載)