雑魚寝にみんなで分け合うご飯 ニジェール川の船旅
ニジェール川は、西アフリカを周遊するように流れる大河だ。ギニアの熱帯雨林からはじまり、マリ、ニジェール、ベナンを経て、ナイジェリアのギニア湾へと流れる。ニジェール川はさまざまなめぐみを周辺域にもたらすだけでない。これらの国々の中で、また国境をまたぎながら、水路としても活用されてきた。
西アフリカの内陸国マリ中部の町モプチでニジェール川では、船の往来が絶えることがない。魚をとったり渡し船として人を乗せたりする小型の船が、あちらこちらに見える。そんな小さな船の合間を、大型の船がゆったりと進んでいる。
大型の船は、人と物を運びながら長距離航路をゆく船だ。バスやトラックが一般的になった今でも、町と町、村と村を結びながら、現地の大切な交通機関として機能している。
今年2月にモプチを訪ねた私は、同国北部で起こっている紛争(※)の実態を知るために、少しでも北部に近づきたいと考えていたが、モプチから北部を目指す乗り合いタクシーは、まるで動く気配がなかった。「明後日には出るだろう」「来週には出る予定だ」という言葉は耳にするが、タクシー乗り場に車はなく、出発を待つ乗客もいない。私は、北部を目指すことをあきらめた。
タクシーが出ないのには、理由があった。モプチから北部の要衝トンブクトゥを結ぶ道は、かつては絶え間ない往来のあるルートだった。しかし、マリ北部の情勢が悪化して以降、車を狙った武装強盗による襲撃が頻発。現地の人々が乗ったタクシーが狙われることは少ないものの、交通量は当然のことながら激減していたのだった。
一方、ニジェール川をゆく船を狙ったトラブルは、これまでにほとんど見られないため、トンブクトゥ行きの船は、現在も運行を続けている。
モプチ在住の友人ハミドゥは、私の意を汲み、それでも北へ進むことを考え続けてくれていた。トンブクトゥを目指すことはできても、トンブクトゥ周辺の状況は極めて流動的なため安心できない。しかし、その手前の町ヤフンケまでならば、問題なさそうだと判断した我々は、大型客船に乗って北部の町ヤフンケを目指すこととなった。
モプチ発ヤフンケ行きは週1便のみ。出発日の朝、水とパンと缶詰を買い込み、私たちは川岸から客船へと乗客と荷物を運ぶはしけ船に乗った。
船着き場があるわけでもなければ、乗船口もない。はしけ船に運ばれながら船に近づき、乗組員が差し出してくれた手をつかみ、船のへりに足をかけてよいしょと乗り込むしかない。はしけ船から客船の縁までの高低差は1メートルほどあるため、慣れていない私には怖い。そんな私の隣で、大柄な老婦人はひょいと乗り込んでいた。
客室は1等と2等に分かれており、1等は2階、2等は1階だ。1等と言えど座席があるわけではなく、平らなスペースにゴザが敷かれているだけ。屋根は低く、立つことはできない。11時前、強い日差しがニジェール川の川面を照らすなか、船はゆっくりとモプチから出航した。
マリ北部紛争のために外国からの来訪者が激減した今、この船に乗っている外国人は私のみ。私としてはジロジロ見られることには慣れているが、乗客にとっては、私の存在が気になってならない感じが伝わってくる。チラリ、チラリとこちらを見るものの、どう話しかけていいものかわからない様子。周囲の人たちに私から声をかけると、目を細めてあいさつをしてくれた。
聞くと、乗客のほとんどが、ヤフンケをはじめとする、マリ北部の村々に住む人々だった。結婚式に出席した帰りの人、ヤフンケでは銀行業務が停止してしまっているため金をおろしに来た人、里帰りする人、日用品の買い物帰りの人、出稼ぎを終えていったん帰宅する人など、北部ではできない用事を足した帰り道の乗客が多い。船室内には、リラックスした雰囲気が醸成されていた。
男性客の多くは、サヘル地域(サハラ砂漠周辺域)で広く見られる長い布を頭にまとっている。北へ、サハラへと近づこうとしていることを、船内で感じた。
普段ならこちらが黙っていても状況説明を続けてくれるハミドゥだが、彼もまた、船の上では完全リラックスモードだ。私も、ニジェール川の岸辺の風景を、ひたすら、ぼうっと眺め続けることにした。岸辺から遠く離れた大河の上を吹く風は、涼しく、心地いい。青い空と川の流れと、岸辺に点在するフラニ族の集落を眺め続けるだけでも、退屈には感じない。時々すれ違う、こちらと同様の客船や小舟に手を振ると、おぉっと声が返ってくる。
それにしても積み荷が多い。ほぼ隙間なく、マリで目にするあらゆるものが積まれている。水入りペットボトル、缶詰、鍋、竹かご、生野菜、自転車、自動車用オイル、ジャガイモ、炭、鶏、反物、バイク、ヤギ、そして、人。荷も客も扱いはほぼ同じ。1等の1等たるゆえんは、そこが人間だけのスペースであるところなのだろう。
船は、途中で荷を下ろしながら、時々人が乗り降りしながら、進んでいく。川岸に着くと、荷役の青年たちが岸辺に飛び降り、腰まで水につかりながら、背に麻袋を背負って荷を下ろしていた。荷を下ろし終わった青年に話を聞くと、大きな袋のほとんどは、ミレットと呼ばれる雑穀か米だという。ひと袋あたりちょうど100キロもあるらしい。着岸と荷下ろしを繰り返しているうちに、ゆっくりと日が暮れてきた。乗客の誰もが、濃いオレンジ色の夕日を見つめていた。
「さて、夕飯を食べよう」
ハミドゥはそう言うと、モプチで買い込んできたパンをちぎり、オイルサーディンの缶詰を開けた。空腹だった私は、そのすべてを掻き込みたかったが、ここはアフリカ。自分の持てるものは隣人とわけあうことは、暗黙の了解のうちだ。心の中では泣きながら、「ご一緒にどうぞ」と隣り合った乗客に声をかけた。私は、食べるのが遅い。みるみる無くなっていく缶詰を、若干の恨めしさを抱きつつ見つめながら、手元のパンを噛み締める。
多分に空腹感を引きずったまま食事を終えると間も無く、調理場から乗客乗員すべてに夕飯が届けられた。これは運賃に含まれたものだ。直径1メートル弱ほどの大きなたらいに、味付けご飯がみしっと詰められたものが、供される。銘々皿はなく、これも乗客どうしでともに分けあって食べることが前提とされたものだ。食いっぱぐれてはならないと、必死に頬張った。
夕食を終えると間も無く、空がオレンジ色になりはじめた。もぞもぞと、ひとり、またひとりと横になり、1等室全体が寝る体制に入る。互い違いに、できる限りスペースを有効活用しようと誰もが考えながら横になるが、すべての乗客が横になるには、ある程度重なりあうしかない。「これじゃぁオイルサーディンだな」と誰かが冗談を言うと、乗客はどっと沸いた。その後も真っ暗な船室で冗談を飛ばしあううちに、寝息が聞こえ始めた。
用を足すために外に出ると、文字通りの、満天の星空が迫ってきた。小さな星までよく見えるため、東京でははっきりと見えるオリオン座ですら、他の星に埋もれてかすんで見える。川岸の木々の影だけが後ろに流れていき、船と星が同じスピードで前に進んでいく。速いわけでも遅いわけでもない、秒針が時を刻むような確かさとともにどこかへ向かっていくような、なんとも不思議な感じだ。
寝床に戻り、何度も足で頭を蹴られながら、ウトウトとする。眠りに落ちることはできなかった。
夜が明けて再び、着岸と荷下ろしを繰り返しながら、船はヤフンケを目指した。ヤフンケが近づくにつれ、乗客も少しずつ身支度を始める。途中からずっと隣りあわせだった青年のアッバも、いそいそとカバンに荷を詰めていた。アッバは、マリ人には珍しい流ちょうな英語で、こう話した。
「長い間、(同国北部の情勢不安のために)モプチより北へ向かっていく外国人を、私たちは見ていませんでした。だから、ここにいる誰もが、あなたを見て喜んでいるのですよ。心からあなたを、乗客の皆が、歓迎しています。ヤフンケで、マリ北部の状況を、自分の目で確かめてきてください。あなたに神のご加護を」
「神のご加護を」と言われて、神に祈るしかない不測の事態が起こり得ることを思い、少し身震いした。
ヤフンケの街並みが見えてきた。歓迎されていることはありがたくうれしくも、気を緩める気持ちにはなれない。ヤフンケの川岸に降りた私は、「帰りもよろしく」と、心の中でつぶやいた。
(※)マリ北部における紛争
2012年よりマリ北部を中心に続く武力闘争。マリ北部の自治拡大・分離独立を求める現地勢力に加え、リビアのカダフィ政権崩壊に伴い武器とともに流入した外国人勢力や、AQIM(イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ)と共闘する勢力など、複数の出自の異なる勢力がマリ政府に対し攻撃を続け、一時は同国北部の3都市(キダル・トンブクトゥ・ガオ)が反政府勢力によって占領された。その後、フランス軍やチャド軍の介入により北部は奪還され、MINUSMA(国連マリ多面的統合安定化ミッション)の常駐により、一程度の平穏は得られているものの、散発的な攻撃やテロは治っておらず、予断を許さない状況にある。
(初出:岩崎有一「雑魚寝にみんなで分け合うご飯 ニジェール川の船旅」アサヒカメラ.net 朝日新聞出版/公開年月日は本稿最上部に記載/筆者本人にて加筆修正して本サイトに転載)