マリ北部紛争の実態

西アフリカの内陸国マリで起こったマリ北部紛争(注)がもたらす影響を取材するため、私は今年の2月、同国中部の都市モプチにいた。ひょうたんの形をしたマリのくびれた部分、まさに中心部に位置するモプチは、今も南北からの人の往来が交差する場所だ。息子の結婚式に参列するため、同国北部のトンブクトゥからやってきた老紳士は、「何もかもが(戦闘により)壊されましたよ」と話していた。モプチに滞在していると、こんな北部の声を聞くことができる。

「モプチから先はマリ北部だ」という意見もあるが、要衝トンブクトゥをはじめとした、北部の深淵を訪ねることを、私は諦めきれないでいた。北部の惨状はモプチにいても聞くことができるが、現地を実際に訪ね、直接、住民の声を聞きたかった。自分の目と耳で、現地の様子とそこにある声を確かめたかったのだ。

北部の取材が難しいことは、私もわかっていた。モプチ・トンブクトゥ間の道で、金品を狙った襲撃が相次いでおり、また、この地域に展開しているMINUSMA(国連マリ多元統合安定化ミッション)の軍用車両を狙った戦闘も、現在まで散発的に発生している。マリ人でさえ、陸路で南北を行き来する人は激減していた。

それでもなんとか北部を訪ねることができないか。道を探っていた私に、取材を手伝ってくれている友人ハミドゥは、「モプチにずっといても、退屈でしょ。」とニャフンケを訪ねることを提案してくれた。

ニャフンケはトンブクトゥ州の南端に位置し、一時期は武装勢力によって占領されていた町だ。国際的に名の知れたマリ出身の音楽家、アリ・ファルカ・トゥーレの生地でもある。モプチからはニジェール川に沿って船で向かうことができるため、陸路を進むことから生ずるリスクもない。彼の言を信じ、自らの判断も重ね、私はニジェール川を下ってニャフンケを目指すことを決めた。

大型客船に1泊2日揺られて到着したニャフンケは、静まりかえっていた。

船着き場こそ若干のにぎやかさはあったものの、最中心部の交差点でさえ、人出が少ない。日陰には、頭にターバンを巻いた男性が、何をするともなくぼうっとしゃがんでいる。時折通り過ぎる車両は、マリ軍人を乗せた車両か、機関銃が設置されたトラックばかり。トラックが通り過ぎると、小麦粉のように細かい砂ぼこりが舞う。町の中心部を外れるとすぐに、砂地がうねる道が四方八方に伸びていた。聞こえるのは、静寂の中、砂が体に打ち付ける音のみ。かつて訪ねたサハラ砂漠がすぐそこにあることを、地図からではなく、五感で感じた。

ニャフンケで聞いた声は、辛いものばかりだった。

街にたった1軒しかない食堂で聞いた話だ。

この食堂の女性店主であるアティヤ・トラオレさんは、同国中部のバンディアガラ出身だが、人生のほとんどをニャフンケで過ごしてきたという。紛争が起こる前は、30カップの米が炊ける鍋をいくつも使っていたが、今は20カップの鍋ひとつだけ。店を維持することはかなり厳しいと話す。ほかの仕事を探そうにも、男性も女性も、どんな年齢の人にとっても、ニャフンケで仕事を見つけることはほぼ不可能に近いという。

あまりにも仕事がないため、ニャフンケでは日に1度しか食事ができない人がほとんどだ。武装勢力による占領が終わった今も、町の人口は減り続けている。また、ニャフンケの周辺を含むマリ北部では、今も毎日、どこかで襲撃が続いていると聞く。この紛争とそれがもたらす問題は、まだ何も終わっていないと感じていると、彼女は淡々と話してくれた。

ニャフンケが襲撃された時の様子をたずねると、彼女の声色が変わった。

「テロリストは、まず若い女性を連れていきました。彼らは私のもとへもやってきて、お前の夫はどこにいるのかと聞いてきましたが、わからないとしらを切り通しました。その時、夫は銀行にいました。その後、銀行は襲撃されました。警察や軍に何度もたずねましたが、夫の安否は今もわかっていません」

アティヤさんの話を聞いている最中に、1人の男性が食堂に入ってきた。アティヤさんは彼に、当時の様子を私に話すよう促した。その男性は遠くを見ながら語り始めた。

彼の名はアリ・テンメレさん(40歳)。ニャフンケで生まれ育った人だ。ニャフンケがマリ軍によって奪還される際には、銃を持って参戦したといい、肩には撃たれた跡が残っている。

「マリ軍がパラシュートで降下してきてニャフンケの奪還作戦を始めるまでの3カ月間、テロリストはこの町を占領していました。町の外につながる主要な道の出入り口、町の中心部、そして役場と、ニャフンケにとって大切な場所をまず抑えて、占領を開始しました。実によく計算されたやり方でした」

アリさんは話を続けた。

「彼らはまず、女性のレイプから始めました。私の目の前で、友人の妻を犯しました。次に、銀行、警察、裁判所、市場、病院といった主要な施設を次々に壊していきました。学校は、彼らが寝泊まりする場所として占拠されました。さらには、畑を荒らし、井戸を壊し、農機具を破壊し、穀物庫を焼き払い、道や橋を壊しました。むやみやたらに破壊していくのではなく、この社会が機能するために必要なあらゆるものを周到に狙いながら、破壊を続けました。そしてその間、気に入らない人間を、次々に殺していきました」

ここまで話すとアリさんは下を向き、「すべてを話すことは、実につらいことです」と言って、目元を指で拭った。しばらくの間、指でどれだけ拭っても、彼の涙は止まらなかった。

次に話を聞いたのは、役所の所長さんだ。彼は整然と、状況を話してくれた。

「何よりもまず、食料を欲しています。農耕を再び始めようにも、畑と農機具と井戸を壊されたため、自力で復興することができません。テロリストは家畜も奪っていきましたから、牧畜もできない状況です。そして、学校と病院の整備が必要です。勉強に必要な本、鉛筆、紙、机、すべてを失いました。病院でも、あらゆる設備が破壊されています。また、眠る場所の確保も必要です。家屋が壊され、マットレスで寝るしかない人々がたくさんいます。マットレスすらない人は、地面の上で眠っています」

ニャフンケの人口は、どれほど減ったのかをたずねてみた。

「かつては15000人の住人がいましたが、今は7000人強ほど。多くの人が殺されましたが、連れ去られた人も多数いるため、人口減の詳細は、私たちも把握することができずにいます」

役所の真向かいにある学校を訪ねた。校長先生のダド・イルワ・カヤさんが、穏やかな笑みとともに迎え入れてくれた。この困難な状況にあっても、身なりを整えた、凛としたたたずまいが印象的だった。

「かつては約3000人の児童がいましたが、現在は451人しかいません。殺されたり、いなくなったりしました。教員は現在、私を含めて6名のみです。テロリストはこの学校を占領し、住み込んでいました。彼らは机を壊し、焚き木として燃やしました」

今、必要としているものは何か。

「まず、机がほしいです。今は床で授業を受けるしかありません。先生も必要です。紙、ペン、教科書がありません。給食も欲しています。給食が再開されれば学校に戻ってくることができる児童がたくさんいますから。そして、制服を作れないことに困っています。学校では、身なりの貧しい子どもと裕福な家庭の子どもが一緒に授業を受けます。今は、身なりが原因で、互いを敬い合うことができません。だから制服が必要なのです」

その後もダド先生はよどみなく、この学校の置かれた状況を説明してくれた。去り際に彼女は、こう付け加えた。

「もし(日本の人たちが)助けてくれるならば、どうか、どうか、どうか、学校を助けてほしいと伝えてください」

思わせぶりな返事をしたくなかった私は、約束できるのは伝えることまででしかないと伝えると、「そうであっても、あなたに感謝します」と彼女は言った。

その後、アリさんのバイクに乗り、裁判所、魚市場、病院、学校、税務署などを巡った。どこも、銃弾の跡ででこぼこになった壁に、焼き打ちのための煤(すす)が見られた。人影はなく、復興のかけらもない様子だった。私が見た中でかろうじて機能していた施設は、話を聞いた役所と学校だけだった。

自動車用オイルを販売する商店も焼き打ちにあっていた。近くにある他の商店は、物は取られたものの焼き打ちにはあっていない。この町を襲った者たちが、徹底して、町の「機能」を狙って破壊していったことを、改めて目の当たりにした。

せめてもの救いを感じられたこともあった。

木陰でたたずんでいたマイガ・ミンカイバ・アライェさん(66歳)に話を聞いたときだ。襲撃時の様子をたずねるとマイガさんは「この世にあるすべての悪事を見ました」と話し、下を向いてしまった。マイガさんはトラックドライバーだったが、車を壊されてしまい、全く仕事にありつけていないと言う。その後も話を聞いていると、マイガさんのもとに、20歳前後の青年が歩み寄り、1000CFA(約200円)紙幣1枚と、紙切れに包んだ魚のフライを手渡した。この青年もまた、マイガさん同様、トラックドライバーだという。ごく限られた収入を得るたびに、その一部をマイガさんに分け与えてくれているらしい。マイガさんとこの青年は親子でもなければも遠戚でも無い。これほどの困難な状況においても、アフリカ各地で広く見られる助け合いの精神が見られたことに、私は感嘆した。

ニャフンケが襲撃を受け占領されていたのは、2012年のことだ。その後4年の月日がたったが、人も活気も、もともとそこにあったはずの生活も、まだ何も戻っていない。戻ってきたのは、破壊と略奪がない日々のみ。静けさはあるが、平穏とは到底言えない。ほとんどのインフラは今も止まったままだ。医療を受けるにも、銀行で現金をおろすにも、1泊2日かけて船に乗り、モプチまで出なければならない。

ニャフンケは、この世界から放置されているように感じた。助けあいにも限界がある。放置され続けた先に何が起こるかを思うと、私は今も、ひたすら暗い気持ちにしかなれない。

私たちは、週1便あるモプチ行きの客船の出航を待たず、モプチ方面へ向かう木材運搬船を見つけて乗り込むことにした。お互いにモヤっと暗いものを抱えたまま、帰路に着いた。

【※注1 マリ北部における紛争】
2012年よりマリ北部を中心に続く武力闘争。マリ北部の自治拡大・分離独立を求める現地勢力に加え、リビアのカダフィ政権崩壊に伴い武器とともに流入した外国人勢力や、AQIM(イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ)と共闘する勢力など、複数の出自の異なる勢力がマリ政府に対し攻撃を続け、一時は同国北部の3都市(キダル・トンブクトゥ・ガオ)が反政府勢力によって占領された。その後、フランス軍やチャド軍の介入により北部は奪還され、MINUSMA(国連マリ多面的統合安定化ミッション)の常駐により、一程度の平穏は得られているものの、散発的な攻撃やテロは治っておらず、予断を許さない状況にある。

 

(初出:岩崎有一「マリ北部紛争の実態」アサヒカメラ.net 朝日新聞出版/公開年月日は本稿最上部に記載/筆者本人にて加筆修正して本サイトに転載)