友へのお礼の難しさを解消してくれた魔法の袋

現地で取材を続けていると、どうしてもお礼を渡したいと悩むことがある。

終日私に同行してくれて、労を買って出てくれた人に向けて、なにか恩返しをしたいのだが、興ざめとならない方法、これがなかなか難しい。

私の取材スタイルの場合、初めて訪れる地に着くなり、ガイドや通訳を探すことはなく、できるだけ自力でその土地に入り込んでいくようにしている。そうしていくうちに、ここを紹介しよう、この人に会って話すといいと助言をしてくれる人が現れ、その助言に従いながら、その地域もしくはコミュニティーのさらに深部へと分け入っていく。

その途中で助言してくれる人や手助けしてくれる人は、ほぼ善意で私に寄り添ってくれる。そのような方々とは、取材者と取材協力者の関係というよりも、志をともにした友人、場合によっては(アフリカで言うところの)兄弟のような関係になることが多い。

ただ、いくら善意とはいえ、数日にわたる時間や労力を割いてくれた場合、さすがにお礼を渡したい気持ちになるのだが、そこでお金を渡してしまうと、せっかく築き上げた関係にヒビが入ってしまいそうになることがある。

トーゴの首都、ロメ周辺での取材では、友人のカムランがバイクで数日間にわたって同行してくれた。ひと通りの取材を終え、私の感謝の気持ちとしてお礼を渡したいと話すと、彼は首をプイと横に振った。

「ユウイチ、僕はユウイチが考えていることに賛同して、ユウイチを手伝いたいから、だから一緒にいたんだよ。お金が欲しかったからじゃない」

私にとって、アフリカで最も長いつきあいになる友、カムラン(ポガン・トーゴ 2012年/Kpogan,Togo 2012)

空港で、国境で、建物の入り口で、「ようこそ、友よ! なにか手伝いましょうか?」と声をかけてくる輩(やから)には、アフリカのどの国を訪ねても出会う。そのような場所や局面で、私がほんとうに助けを必要としていたことはなく、うっかり手伝ってもらうと、法外な金額を要求される事態が待っていることが多い。

私がお礼を渡したいと申し出たことで、一瞬でも、そのような金を求めて群がる輩と同じように、私がカムランのことを思ったと感じられたかもしれないと思うと、寂しい気持ちになった。

2010年の南アフリカW杯に湧く南アフリカのヨハネスブルクでは、エルビスにずいぶんと世話になった。勘所もないままにひとりで歩き回るのは難しいヨハネスブルクを、ともに練り歩き夜の盛り場をいくつも訪ねた。頭の回転が速く、細やかな配慮を常に欠かさないエルビスは、私にヨハネスブルクを紹介してくれる前に、やんわりと、機先を制した。

「お金は要らないからね。決して多くはないけれど、僕は自分の仕事で稼いでいるから。ユウイチに、自分の目でヨハネスブルクを見てほしいから、僕はこうやってこの街を紹介しているんだ。もし嫌だったら、嫌と言ってほしい。他に見たい場所があれば、臆せず聞かせてほしい」

ありがとうという言葉しか出てこなかった。しっかりと見て、日本で確かに伝えることでしか恩返しできないと思い、私は取材に集中した。

どこが安全な場所なのか、当時の私にはわからなかった。エルビスがいなければ、ヨハネスブルク市内を練り歩くことはできなかった(ヨハネスブルク・南アフリカ 2009年/Johanesburg,South Africa 2009)

2013年、マリ北部の主要都市がいったん奪還されたころ、隣国のブルキナファソから、そろりそろりと様子を見ながらマリの首都バマコに入った。人々の様子を見ながら街中を歩いていると、カメラバッグを肩から下げて写真を撮りながら歩く白人男性を見かけた。眉間にしわを寄せた、気難しそうな感じのする人だった。だいぶ歩き疲れた私は、宿まで乗り合いタクシーに乗って戻ろうと車を止めると、その男性も一緒に乗り込んできた。こんにちはとあいさつをすると、彼は目もあわせずにうなずくだけだった。

私には、彼が観光客には見えなかったため、ここで何をしているのかが少し気になっていた。自分のカバンからカメラを出し、「同じ仕事かもしれませんね」と再び話しかけると、「ジャーナリストか?!」と、少し驚いた様子で、自分もそうだと反応を示した。

これからどこへ向かうのかと聞かれ、まだ計画を思案中だと答えると、「北へ進むのならば、フィクサーが必要だ。もしよければ、電話番号を教えてあげよう」と彼は言った。「ガイド」という言葉は何度も聞いてきたが、「フィクサー」は初めてだ。彼がここで言うフィクサーとは、取材をする先々で、現地の人々ともめ事が起こらないよう、取材者と取材を受ける側との間に入って、その都度交渉や調停を行う役割を担う人のことをさす。自分が、紛争の起こっている地へと進もうとしていることを、感じさせられた言葉だった。

その男性からの申し出にありがたく応じ、メモ帳に、そのフィクサーの名前と電話番号を書いてもらった。同国北部でジャーナリストのフィクサーをしている中でも、最も仕事のできる男らしい。

このジャーナリストがタクシーから降りた後もしばらく、私はメモ帳の電話番号に、じっと目を落としていた。フィクサーを雇わなければならないような取材を私ができるのか、まるで自信を持てなかった。フィクサーを雇わなければ入っていくことのできないコミュニティーがあると思うと、なんだか残念な気持ちになった。

モプチで観光ガイドを営むハミドゥ。ドゴンの民だ(モプティ・マリ 2014年/Mopti,Mali 2014)

結局この年、マリ北部の深くへと入っていくことは叶わなかったが、マリ中部のモプチで観光ガイドをしているハミドゥと出会い、彼にさまざまな話を聞き、彼とともに多くの場所と人を訪ねた。モプチの町を去るころには、互いに仲間と感じられる関係になっていた。

私にとってのハミドゥは、大切な取材協力者ではあるが、彼をフィクサーと呼ぶことにはかなりの抵抗がある。私たちを見て、「君のガイドは……」と呼ぶ人もいるが、ハミドゥは「私のガイド」ではない。私にとってのハミドゥは、まずなによりも先に、一人の友だ。

このとき、ハミドゥとは約1週間行動をともにした。仮にハミドゥから要らないと言われても、私はお礼を渡すつもりでいたが、お金で彼の労を買ったようには思われたくなかった。考えあぐねた結果、「あなたの気持ちに感謝したい」と話し、私はいくばくかのお礼を渡した。ハミドゥは受け取った紙幣をじっと見つめた後、ありがとうとほほ笑んだ。

翌年に再びモプチを訪ねた私は、ハミドゥに再会。取材計画を話し、できれば今回も手伝ってほしいと伝えた。するとハミドゥは切り出しにくそうに話しはじめた。

「去年、ユウイチからお金をもらったでしょ。あのお金をもらわなければよかったと、あの後ずっと考えていたんだ。友だちが困っていたら、助けるのは当然のこと。しかも、ユウイチは(会社の金ではなく)自分の金を使って取材に来ている。あのお金はもらってはいけなないものだったように、感じているんだよ」

私は決して多額を渡したわけではなく、私の財布が許す範囲での、ごくささやかな額を手渡しただけだったのだが、ハミドゥはその金のことをずっと考え込んでしまっていたようだった。ハミドゥの心の中では、多くの時間と労を割いたことから報酬を得られるのは自然であるとの思いと、友を助けることをお金に換算してしまったように感じたことへの罪悪感が、逡巡していた。

この年、私はあるものを日本から持参していた。お礼を渡す際にすんなりと受け取ってもらいたいと、お年玉を入れるような、和紙でできた小さなご祝儀袋を用意してきたのだ。

このときもハミドゥにたっぷりと取材を手伝ってもらった私は、そのご祝儀袋に紙幣を入れて封をし、おもて面に漢字で「御礼 岩崎」と記したものを、ハミドゥに手渡した。記した漢字の意味を説明した上で袋を手渡すと、彼は満面の笑みをもって受け取り、中身を開けずにポケットの奥へとしまい込んだ。すんなりと受け取ってもらえたことに、こちらも胸をなでおろした。

その後も何度か、ご祝儀袋を使っている。

寡黙なフィスカ二は、誰と話していても、過剰な反応はしない。じっと耳を傾け続ける姿勢が印象的だった。(チチメンベ・マラウイ 2016年/Chichimembe,Malawi 2016)

トーゴのカムランと再会したときには、かねて渡したいと思っていた出産祝いを包んで渡した。マラウイで数日間、街の様子や畑の現状を詳細に紹介してくれたフィスカニにも、「御礼」を記した袋を手渡した。いずれも快く受け取ってくれた。善意と金がてんびんにかかったようなやるせなさを感じることは、互いに、なかった。

その2年後、カムランの自宅を訪ねると、立派な少年になった息子が私を迎えてくれた。壁には、「出産祝」と書かれた祝儀袋が、画びょうで留められていた。昨年、ハミドゥの自宅を訪ねたときも、「御礼」の袋が食器棚の上に置かれていた。私の気持ちを受け止め、それを大切に思い続けてくれていることが、私が手渡したご祝儀袋から、伝わってくる。

ちなみに私は、あちらこちらで祝儀袋をばらまきながら取材をしているわけではない。毎回、渡航費と滞在費を工面するだけでやっとの状況だ。

 

最上部写真キャプション:カムランから私は、人との向き合い方について、多くを学んだ(アネホ・トーゴ 2012年/Aneho,Togo 2012)

(初出:岩崎有一「友へのお礼の難しさを解消してくれた魔法の袋」アサヒカメラ.net 朝日新聞出版/公開年月日は本稿最上部に記載/筆者本人にて加筆修正して本サイトに転載)